昭和四十六年十二月二十日 朝の御理解
X御神訓 信心の心得 「わが心でわが身を救い助けよ」
わが心でわが身を救い助けよと。この方の道は病気治しや災難除けの神ではないと心直しの神じゃと。四神様の御教えですかね、ですから心直しの事に焦点をおく。
心が直る。例えば体が、例えば、病気であっても、治るというおかげを頂くわけですね。自分の心を改めていく。そこに願いもしないおかげが展開してくると、そういう事もやはりわが心でわが身を救い助けたまう事であろうとおもいますね。
火の車、造る大工はおらねども、己が造りて、己が乗るなりと、いうまあ、仏教のお坊さん方がお説教なさる中に聞く言葉ですね。教えです、教えというか例えです。 確かに、火の車とは地獄という事でしょう。自分で地獄行きをせねばならないような事をちゃんとしておる。又は自分自身が根性がよくないから、人もやはり同じ根性のように思うて、いらん取り越し苦労をせねばならない。又は悪い事等を致しますと心の呵責に責めさいなまれる。まあ、そういうような事でしょうね。
確かに火の車、造る大工は居らんけれども、自分が造って自分が乗るのだとこういうわけ。そういうような事もありましょう。わが心でわが身を救い助ける。それで、わが心で自分を楽にするというか、救い助けるというか、御理解七節の一番最後のところに信心はせぬでも、おかげはやってあるとおっしゃる。信心はせぬでもおかげはやってある。だから、そのところに気付かせて頂いてです、信心はせぬでもおかげはやってあるという。そのおかげをおかげと気付かせて頂く。わからせて頂く。そこには助かっておる自分を感じるわけであります。私がいくら例えをもって申しましたのが大体は、そういう事をわが身でわが身を救い助けると。悪い事をすればやはり自分の悪い心に責め苛まれる。悪い事をすればその報いがくると。火の車を造る者は居らんけれども、自分が火の車を造って自分が乗っておるというような。
ところがそういうですね、何というでしょうか、小さい意味に於いての、同情的とでも申しましょか、その意味からいうと、苦しまねばならんのですけれども、これを大きな見地、例えば只今、申しました御理解の信心はせぬでも、おかげはやってあるという、おかげに気付くという事。そこにはです、助かっておる自分の、あれにもお礼を申し上げねばならない。これにも御礼をいうより他にないという事になってくるのすよね。実に微妙というか、このように微妙な事はないですね。
例えば同じという事はあり得ないでしょうけれども、まあ同じ行き方をしている人が、一人は地獄の責め苦を心に感じておる。一人はそれを有難いおかげとして、有難いいわば、有難いと。人間の幸を謳歌しながら、生活しておる。私は親鸞上人様なんかは、その一切をあれもおかげ、これもおかげとして受けて行かれた方だと思いますね。いわゆる信心はせぬでも、おかげはやってあるという。おかげに開眼された、目を開かれた。例えて申しますと、当時の仏教には精進という事の焦点が、親鸞上人様の感じられた焦点とは違っておった。例えば、生臭気をとってはならないとか、又は妻帯してはならないとか、女に接する事は大罪悪のように言っておった時代にです、それをみんなおかげとして頂かれた。
善人ですら助かるのだから、悪人は尚更助かるんだというような事をいうとられます。例えば、それが悪人であっても、親鸞上人様の話をいうなら、御理解を聞くと、まあ、自分は自分で同じ事だ、こんなにも地獄の苦しみを心の中に感じておったけれども上人様の御話を頂くと、これは反対に御礼を申し上げる事であった。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えれば、助かるんだというようになってきた。私は今日はね、そこんところを、お互いわからせて頂かねばならん。ですからこれは、正直だからとか、素直だからというのじゃないです。正直だから助かる、素直だから助かるという事ではないです。正直でも貧乏してる人がある。いや、正直者程、馬鹿を見てるというのが、現代の様相だと思うです。
右向けといえば右、左向けといえば左、というように例えば、素直な人は、もうそれこそ馬鹿のごとしかいわん。ですからここのところではですね、わが心でわが身を救い助けるという。それにはあまり関係はないと思うですね。
本当の事をいうなら、知るという事、開眼するという事、神様が信心はせんでもおかげはやってあるというおかげを、私共が信心させて頂いてわかった時に、はじめてそこに助かりを感ずる。だからそこに信心を抜きにしては駄目です。
あの人は仏様のような人じゃと、神様のような人じゃというても、やはり次々と難儀な事が起こってくれば、世間ではどういう事であろうかというのがそれである。
だから正直者であるとか、素直であるとかというそれではない。けれども、信心して、おかげを受けるのは別ものとおっしゃる。信心してお道の信心をして話を聞くというのは、話を聞かせて頂く事によって、あれもおかげであった、これもおかげであったという事実がです、おかげがおかげとわからせて頂く事が出来る。素直でもないさほどに正直でもない。けれども人の良いのとおかげを受けるのは別ものとおっしゃるように、信心しておかげを受けるという事は別ものなのです。それはどういう事かとていうと拝んで参ってという意味ではなくてです、信心させて頂くから、あれもおかげ、これもおかげという事がわかるのであり、信心をするから信心をせぬでもおかげはやってあるというおかげを信心がない間はおかげとわかってない。
信心をさせて頂くから今まで気が付かなかった、神様が信心はせんでもおかげはやってあるというおかげに【 】めるわけです。ですからこれは信心してですね、信心しておかげを頂くのは別ものとおっしゃる、その信心をね、例えば皆が信心しておる。けれどもその信心をしても、そこんところを頂かなかったら駄目ですよ。やはり信心はせぬでもおかげはやってあるというおかげに気付かなかったら、そこに私は、信心の稽古が必要だという事になるのである。今日は私は、はじめのところは一般でいう、わが心でわが身を救い助けるのだという事を申しましたです。今私が申しておるのは、そういう意味じゃないです。信心はせんでもおかげはやってあるという事、それを信心させて頂く事によって、御理解を受けて、はじめて信心せんでもおかげはやってあると頂いておるおかげに目がさめる。目かさめた事も有難い。お参りさせて頂く。手も足もこうやって健全である。おかげでお参りが出来る。目も見えておる耳も聞こえておる。信心はせんでもその位というと大変ですけど、そのような広大なおかげを受けておるという事。信心はせんでも、けれども信心をせなければそれをおかげと実感しきらんのだ。
信心をしておっても、それを実感して受け切らないものもあるわけです。だから信心して、ここがわからなければわが心でわが身を救い助ける事にはならない。
いわゆる信心させて貰うならば、正直にならせて貰わにゃならん。素直になさせて貰わにゃならんと。とういうておってもそこんところがわからなかったら、おかげをキャッチしきらない。
いわゆる正直者が馬鹿を見る事になり、本当に素直にあるのは、あれはちっとは馬鹿じゃなかろうかという位、いわゆる結果しか生まれてこない。信心をするからわかる。そこんところを本当にわかる。そこに稽古である。信心の稽古が大事なのである よく私はこの例を一番適切だと思いますから話ますけれども、久留米の石井かおるさんです、まだあの人が娘時代に仲々天才と思われる位に、私は天才だと私は思うですね。お花にかけては、当時の先生がどうでも本気で稽古をして、よいお花の先生になれといわれた位に、それは本当に実に何というですかね、ハッと目を見張るような花を、あの時代にいけておったですね。
感覚が素晴らしいわけですね。それに稽古をするものですから、ます々お話の道が上達したわけです。あるお花の展覧会がありますのに、自分も出品する事になった。 それでお願いに来た。そしたら神様が花屋で買った花よりも、山に行って自然の草木を取って、それでいけたがよかろうという。お知らせを頂いて、山にお花の材料を取りにいくようになった。そして、山に登って花を剪る花鋏をもって、山に登らせて頂いて、藪の中に立たせて頂いた。そしたらその藪の中にある草も木も枯れた枝も、枯れた葉も皆、あれも素晴らしい、これも素晴らしい、いわゆるあれもお花の材料になる、これもお花の材料になると思うたそうです。素晴らしいですね。
信心の稽古というものはそうです。お花の稽古をさして頂いたら、それこそ路傍の石までが、いうならお花の材料になるわけです。そう見えるんです。
私はある時にもうこちらに嫁に来てからでしたけど、天神町の方へ、行った時分に何かで参りました。何とかというお祭りか何かだったでしょう。そしたら、昔の酒屋さんに角樽というのがあります。その角樽の八つ手の枯れて落ちておる葉ばっかりでいけたお花があった。もうその下の角樽の赤と、もう茶色になった、黄色になったその葉の調和の見事さ、もう驚いてしまった。
丁度向こうへ大きな住宅があって、その向こうから塀を乗り越えるようにして、八手がこう、しこってきておる。それう掃きよったら八っ手がいっぱい落ちとった。
それを拾うてきて、いわゆる成程その器も素晴らしい、それに八っ手の葉をもう、八っ手の葉ばっかりでもう腐って黒くなっているのもあれば、黄色く茶色いのもあるというたような、その色の使い分けの見事さに驚いてしまう程しに、見事な花がいけてあった。ほう、こげなものも花の材料になる、これも花の材料になると思うたらね思うた途端に感動がわいてきて、木鋏をもったまま泣いてしもうたというてから、次に御礼に出て来た時に話しておられました。
私、その話を聞かせて頂いて、信心もだんだん進んだらです、もうどんな自分のおかげを頂く材料ばっかりなのである。自分の周囲には。
それをそげな事はいらん、こげな事では困るというておるだけの事。そげな腐ったごとある葉が何になろうかいというておるようなものです。
花が出来ない人はそういうておる。信心がだんだん出来てくる、稽古がだんだん出来くると、その全てが信心のおかげにならない材料は一つとてもない。という事がわかるという事がです、いわゆるそういうおかげを神様は下さってあるのだけれども、話を聴かないとそのわけがね、いわゆる信心はせんでもおかげはやってあるけれども信心して稽古をしなければ、そのおかげをおかげと感知する事が出来ない。それをおかげと実感する事が出来ない。
私はわが心でわが身を救い助けよと言うことはね、そういうふうに、例えば今日の御理解は進展してきたわけですね。信心はせんでもおかげはやってあるというおかげ一本一草一切が花の達人になると、その一本一草がすべての花の材料にならないものはないと思う。それがわかった。そしたら、感動が湧いたというのはどういう事でしょう。かおるさんが感動したのじゃない。天地が感動ましましたのだ。自分がつくっている枯れ木も、枯れ枝も、草も木も、いわゆる天地の親神様のお恵みによって出来ておる。それをかおるさんは、あれもおかげお花の材料になる、これもお花の材料になると思うた事はです、神様のお心をぴしゃっと受け止めたわけです。
それはお前にしてわかる事。石井かおるにしてわかる事。それがわかる事がわかった時に、天地が感動ましました。その感動が木鋏を持って泣いたという感動になってきておる。
考えてごらんない。あれも花の材料になる。これも花の材料になると思うた時、感動が湧いてこぬ筈がないでしょうが。天地が感動ましましたのです。
その感動が神様の心に伝わって、そこにかおるさんの心が、いやが上にも救い助けられておる。わが心でわが身を救い助ける。
四神様が教えておられます。おかげは神から出ると思うな。氏子の心から出るものぞと、教えられた。いわゆる心次第である。その心次第ですけれども、信心を頂くというか、信心はなくても、おかげはやってあるそのおかげを信心をせなければです、信心の稽古をしてければです、おかげをおかげとわからん。花の道をいよいよ極めて稽古していかなければ、あれも花の材料になる、これも花の材料になるといかす事をしきらんです。信心とはそういう神様から頂いておるおかげを生かす道を教えて頂くのが、お道の信心、そこからあれもおかげである、これもおかげであるという事がわかってくる。
わが心でわが身を救い助けよと、だから自分の心は誰もは誰も持たんものはありませんが、悪い事をしたといっては心の呵責に責め苛まれる。同じ事をしながら、片一方の人はそれをおかげだ有難いというて受けてる。心次第、信心の稽古をさして頂いて、自分の周囲のすべてが、わかり易くいうならば、心磨きの材料であったら、改まらせて頂く材料であったりする事になれば、それは生き生きとして、その事柄が生きてくるわけです。同時に信心はせんでもおかげはやってあるという、おかげに目覚めた事になるのです。おかげをおかげとわからせて貰う。それをおかげをおかげとわかりきらない。生かしきらない。そこに難儀がある。今日は大変高尚な御理解でしたね けれども稽古させて頂く事によってです、例えば、石井かおるさんのお話をしましたように本当に花の稽古をしない時には、それ程わからなかったけれども、稽古をしだしたら、あれもお花の材料になる、これもお花の材料になるとう事になってきたように、信心の稽古をさして頂くとです、あれもお徳を受ける材料、これもおかげを頂く材料ともう一切が、お徳を受ける材料であり、おかげを頂く材料になるという事になるのです。それを信心の薄いもの、信心のないものはです、おかげをおかげと頂ききらん。成程、心一つでおかげが受けられる事がわかり、成程、わが心からおかげが出るものだという事がわかる。神様から出るのじゃない。わが心から出てくるのである。片目、片耳、片ちんば、今日はこれは私の事じゃろうと思うた。片ちんばという事は私がいつも足が悪い事だろうと思います。今日も皆が目が赤い目が赤い、どうなさったとですかというけど、寝不足じゃろうくらい思うとった。そころが今日はじめて鏡で見たところが、丁度箸の先で突いた位に、真っ赤に赤い点が出来ておる。まあ星が出来ると言うですね。あのように真っ赤になっておる。
それで今日はじめて、痛うも痒うもない、どうした事じゃろうかと、思うたのですけど、まあこれで片目になったとしましても、私は片一方の耳が全然聞こえませんので片耳です。片目であっても片ちんばであっても、片一方の目が見える。片一方の足が動いとるだげでもね、もう大変なおかげなのですよ。
私共片一方の耳が聞こえないという事に、不平不足思うた事もない。やっぱり両耳を持っておる人以上に私共は、本当に聞かせて頂いておるという事に有難いものを感じておる。それに皆さんは片目でもなければ片耳でもない、ちんばでもない。
そういうおかげを頂いておっても有難いという心が湧いてこないというのは、どういう事であろうか。信心の稽古をしないからです。信心の稽古をさして頂いたら、神様が下さってある、いわゆる信心はせんでも下さっておるおかげをです、信心をさして頂くからわからせて頂くところのおかげをおかげとわからせて頂くところから、神様に不義理な事にはならない。おかげが受けられる。神様も又、義理を立てて下さる そういうおかげを頂いていきたい。今日のところの御理解をわりきって考える。
ドライになる、親鸞上下様はドライにあったのではないです。人間じゃからお前、妻帯したっちゃよいじゃないか。人間じゃから生臭気食べてもよいじゃないか。というような横着な考えじゃないのです。神様のおかげをおかげと本当に知ってです、そしてそれう頂かれてというところに親鸞上下様の素晴らしさがあるのです。
私共ややもすると、ドライになるです。物事を割り切って考えるです。割り切ってじゃない、おかげをおかげと本当にわかって有難いという受け方にならねば駄目ですよね。どうぞ。